文章を読むことと写真について

 今、ル・クレジオの『調書』を読んでいる。タイトルを「文章を読むことと写真について」にしたのはふと思いついた事を書いてみようと思ったからである。クレジオについてはかなり複雑なルーツと生い立ちがある。本を手に取ればそれは大体わかると思うので飛ばして、30数ページまでしか読んでいない中書くのは少しどうかと思いつつ、思うことを書いてみる。

 

 まずこれは何かの役に立つような小説(そういうのも中にはあるのだろう)ではない。想像と創造が文章によって生成される、そういった物語である。こういった種類のものを読むことの効用はその目には見えない光景、見たことのない光景をまるで見たことがあるかのように錯覚してしまうことにあると思う。これが何に有効だろうか。インスピレーションになる。南フランスに行ったことのない私はそこへ行きたいと思う。

 それは何かよくある観光業的な視覚的なキャンペーンによるものではなく、文章によって惹きつけられたモチベーションである。これは「イメージ」についての論考にもなりうると思う。私たちはあまりに広告等から与えられた「イメージ」に縛られすぎて自由に考えることができない。もちろんいい「イメージ」がよりドライブするような種類の行動もあるだろう。しかし現実に、そうした与えられているイメージというのは実に限られた種類の解釈であり、メディアでしかない。実際にそうであるということ、に私たちは慣れてしまっている。

 

 そこで小説を読む。フランス文学の中では現代の括りに入るクレジオはちょっと変わっている。スタンダールカミュやフロべールみたいな感じではない。そこには湧き上がる強固な「イメージ」によって形作られている物語の世界がある。

 

 そんなわけでまだ『調書』を読む必要があるのだが、読む中で文章を読むのは歩くのと似ていると感じた。もちろんすべての文章ではないのだろうけど、歩きながら自然を観察しているような、実際に似た描写があったりするとそこに写真を撮るヒントを見つけられる気がする。私はしばらく自分に満足しながら写真を撮り歩くことから離れてしまっている。時間とお金、仲間が必要なのは言うまでもない。その先にぶつかる壁に対処する為に『調書』のような小説を読むこともまたいいのかもしれない。