2022年4月4日の覚書き

 最近字を書くことが少しだけあり、自分だけが見るものなので極端にカタカナにしたりしているのだが前にそうした方が言語としてスピードが上がる的な主張を見ていたのでそんなことをしながらそのことを思い出したりした。「極端」を「キョクタン」と書くのではまるで速度が違うのがお分かりいただけるだろう。極を書き終わる前にもうキョクタンと書けてしまう。

 

 17時39分。もうすでにビール(酔うなあと思って見たらノンアルだった。ドイツのだからそうじゃないと思ってた)を飲み始めた私は今これを書きながらさっき見た動画について書いておこうと思った。

 

  

 

Why people in Sweden are happier than we are. 787,883 回視聴 2021/05/08

 

この動画である。28分くらいなのでちょっと長い、が見終わる頃にはあなたはきっと(もし日本人であればということにはなるが)周りを見渡し、ため息をつき、その日の振り返りをもしかしたらしながら、この動画に現れる、スウェーデンの人々との違いの大きさと政府の仕事ぶりとにひっくり返ってしまいそうになる事だろう。

 まあ彼らのメンタルの部分がとてつもなく大きいことは間違いない。見ればわかるがここまで精神的な部分が国家それから人々に大きな影響を与えていると実感できるようなことってあまりないような気がする(この動画の内容のどれほどが真実にあたるかは別としても)。

 

 話はだいぶ、変わるが16歳の頃チューリヒの湖畔で野外で芝生の上で留学生が集まって9月の夏の終わりの午後を楽しくやり過ごすことがあったのだけれども、スウェーデンのこの動画の中の人たちはその時のぼくたちに近いものがあるような気がする。それを言葉で説明するのは多少難儀だけれど簡単に言えば余暇・休暇の時間が長く、しかもそれを皆が共有して、会ってそれなりに長く時間や行動を共にできるとでも言えばいいだろうか(これでどれだけ共有されるかわからないのだが)。この下線部がどれほど意味を持つかというのは語り始めるとキリがないのでどうしよう。まあこれが人格形成ならびに国家の形成に関わってくるとでも言っておけばとりあえずいいのではないだろうか。

 

 私たち(一般的に日本人のこと)は基本的に小学校や中学校、高校、それ以降と大体どこでも同じような所属とその縛りを受けながら生活している。というのもそれに付随する部活動やその他課外活動に少なくない時間を割いている。図で表すと以下図1、

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図1

 

こんな感じになる。つまり日本が小さなアメーバがたくさん存在していているのに対し、スウェーデンは一つの大きな枠のアメーバであるということ。この枠が様々な社会事象を説明するにあたって役に立つ。右のスウェーデンは大枠から出なければ自由にその中を動き回ることができる。左の日本は小さい枠がどう動くかは集団内のバランスにより、また個人が自由に動くことは枠が小さいためにできない。日本が今囚われているのは左の小さい枠で各人がお互いに動けなくなっているような状況であって、それ以外の例えば右のような状況を構想することができない。これは個人にとって、さらには国家にとって損失になる事態だ。そうなってしまう原因が格差や様々な障害であったりする。

 

 ところでスウェーデンのような社会を成り立たせる根幹はなんでありうるだろう?個人的な考えを言えばそれは「信頼」であると思う。そしてそれを保障する一定の富や再分配も含まれている。そうした制度の上に信頼が築かれる。

 

 これは少し話がずれるのだが、私が16歳でスイスにいた時も同じようなことを感じた。というのはおそらく男女の格差も日本よりは酷くなく(女性のバスやトラムの運転手はよく見る。普通なのかもしれないが)、人々が互いに信頼し合い(おそらく多少の余裕も必要なのだろう)生活している様を目にしていた。これは、私が一抹の疎外感を日本の社会に対し過去形であれ少なからず感じる理由でもあるのだと思う。

 

 そんなところで終わろうと思う。今できるのは左の分裂したアメーバが右のアメーバに移行できるような作業だろう。言っておいてできるとも思ってもいないのが歯痒さのもとだ。

 

 

終。