サーフィン、またはサーフィンとしての人生

 僕は一度しかサーフィンをしたことがない。湘南の海で、正確に言うと茅ヶ崎の海で一度だけ。。

 

 人生がサーフィンだとすると海は何か。人生がサーフィンだとすると波とは何か。人生がサーフィンだとすると。もし上手く波に乗れなくても、海が無くならない限り、次の波が来るだろう。もうそこの波が気に入らなくなったら、そこの雰囲気がもう以前とは違うものになったら、違う場所に行けばいい。違う島の違う砂浜の違う波に乗ればいい。だからただ一つの場所でうまく波に乗れなかったからと言って、君が波に乗れないということにはならない。皮肉にも僕はサーフスポットに明るい人間ではないのでどこがいいのかは他に譲るとして、波が微妙だなと思ったら陸に上がって海を見渡し、湾を見渡し、いい波のある場所に行こう。それくらいは言える。

 

 大半の人、大半のシーンで目につくのは同じ場所で同じ時間に同じ顔ぶれでなんとも言えない波に乗ろうとしていることだ。彼らはうまく波に乗ろうとしているのかもしれないが、陸からそれを眺めている人からしてみればまるで醜い争いのようにしか見えない。問題は陸からしかそれは分からないということだ。しかも波に乗ろうとしてる彼らは陸の人間を軽蔑するだけではなく、自分たちを何か凄いことを達成しようとしているより優れた人間だとさえ考えていることさえある(本当に)。

 

 

 このような事態は至る所で起きる、または起きている、起きてきた。実際にそうした波に乗ろうとする愚者の中から一人海から陸に上がるには周りの同じような愚者たちから非難の声を浴びることなしにはいられない。だからこそそれは大変なのだ。

 

 

 人生がサーフィンと違うのは、人生は一つの波で終わらない。人生は一つの波に乗り続けることではない。一つの波に乗り続けることがサーフィンでもないのだろうけど。 

 会社の規定に、「君はこの一つの会社、一体となった波に乗り続けなければならない。」なんて書いてあったらひっくり返るだろう。こちらから願い下げだ。

 

 

 新しい波を探して。または求めて。

 

 

2022年3月22日 春分の日の一日後に。