高級娼婦としての日本人

 今回は高級娼婦としての日本人について書こう。これは高級娼婦に関する考察でもなく、実際に存在する日本の高級娼婦に関してレポートするのでもない。ここで私は「高級娼婦としての日本人」について述べる。

 

 その言葉の意味をWkipediaで見てみよう。

 

高級娼婦 - Wikipedia 

娼婦のうち、特に多額の対価を要する者で、おもに高い身分の者、有力者などを客とし、しばしば相手を選ぶ権利をもつ。地域、時代により様々な呼称がある。

 

とこのように書かれている。娼婦は文字の通り「女性」であることが指し示されている。ここで言う高級娼婦としての…と言う時のそれは言葉通りの意味において、比喩としてのそれであることを断っておきたい。そうしないと男娼(男性版の娼婦)について書いてると勘違いをされるかもしれない。

 

 さて、高級娼婦としての日本人とは誰なのだろうか。唐突な問いではある。だがこれが今回のメインテーマであり、また日本の抱える構造的なジレンマといったものを含むであろう問題について言わせてもらいたいことなのである。

 さまざまなデータやランキング、見慣れた先進国最下位といったセンセーショナルかつほとんど何の現実的なパワーも持たない事実がこの数十年の間発表され続け、おそらく誰もが認知しているであろう男女間における格差、まるで空気のように存在し、誰かがそれを公然と忌み嫌うのでも、嫌悪を表明するでもないこの格差に対し、私は「高級娼婦としての日本人」を掲げることでこのアンタッチャブルかつセンシティヴなイッシューにプロテストする。

 ところで、それは一体どういうことなのか。まず最初にそもそもその高級娼婦はどんな人達のことを指して言っているのかをはっきりさせたい。果たしてあなたは高級娼婦と聞いてどんな人たちを想像するだろうか?

 大半の人間は容姿端麗でスタイルが良く見た目の良い女性、一際目立つ女性、そうした人を想像するだろう。その通りだ。それが正しい。私もその意味で使用している。それに「高級」の二文字が付いている。高級車と同じだ。車に「高級」の二文字が付いているのとまるで同じ。先ほどふれたWikipediaではいくつか「高級娼婦」の言葉の由来、オリジナルについて記述があったがここでは高級車につける意味での高級であるとしよう。車で言えばポルシェやベンツとかなのだろう。いわゆるスーパーカーとは違う。付け加えるならレクサスも一応その仲間ということにはなるのだろう。見かけるところではよく見かける、というかある場所ではそうした車しか見ない。高級だからといって全く見かけない訳ではないらしい。

 そんな高級車のような、高級娼婦について書かなければならない。高級娼婦は職業ではあるのだろう。暇を持て余して高級娼婦になるというのは考えにくい。そこには動機がありバックグラウンドがある。また彼女たちは若い頃から、というのは遅くても30歳になる手前くらいには高級娼婦になっていると思われる。若さというのも「高級娼婦」の四文字に含まれたもののように受け取ることは可能だ。字義通りの高級娼婦というのはそういったものだと思う。

 

 ここまで来れば私の言おうとしている「高級娼婦としての日本人」の意味もなんとなくおぼろげながら分かってきた頃ではないだろうか?(違っていたら申し訳ない。)

 つまり男性がそれで女性が顧客である、ということだ。もちろんすべての場合がそうであるとは言わない。というかそう言っておいた方があるいは大抵は正しいのかもしれない。そう断っておいても日本における男性がそれで女性が顧客であると言わざるを得ない。私達男性≒高級娼婦、この図式はどんな時にどんな方法で成立するか。彼らは週に5日、働いている。日本経済を支えるという、名目上そうなっているし、実際上も大方はそうなのだろう。M字カーブは象徴的だ。ただそれだけが全てじゃない。それは賃金であり、労働時間であり、扱い(企業による男性に対する)なのだ。その分女性が育児を負担し家事を負担しているのは事実であり、それを認めた上でこの世の優秀な、家庭を持つ男性はまるで高級娼婦のようだと私は思う。そう呼ばれるのを男性陣は嫌がるだろう。「そんな馬鹿な」と言うだろう。ところで彼ら高級娼婦のような優秀な男性は企業で何をしているのだろう。おそらく日々高級娼婦的企業人的生活に精を出しているのは疑いない。私だって彼らが日々育児に精を出しているのを見たらこんなこと思わなかっただろう。平日の公園、子どもを妻に預け出勤して帰ってくる。土日だけのファーザー(土日もいないかもしれない)。統計で見るとまあ醜悪な違いが数字に出てきて見るも無惨な状況。酒でも飲まなきゃやってらんない(私が)。

 

 そしてこのような状況がつくり出しているのがあまりに冴えない、霧の方がまだましという低空走行日本経済なのだから質が(更に)悪い。そもそもシャイン!とか言う必要がある社会でそんな輝かしい社会経済が興るはずがないのだ。平日にベビーカーを押した男性が街を平然と歩いているようになってまあいい社会だと言ってもいいだろうくらいなものだ。なぜそうならないかが根本的に、また構造的に問題なのだろう。そういった根本的・構造的要因が解消されない限りずっとこのままの成長なのか衰退なのかなんなのかわからない、袋小路でどん詰まってお終いだろう。日本の景色は変わらない。高級娼婦も減らない。

 

 そもそも高級娼婦って幸せだろうか?あなたは高級娼婦になりたいですか?

 

 最後に。厄介なことにその高級娼婦に色々としてもらっている側も、高級娼婦の側も、どちらも幸せではないというのが実際のところだろう。というか本当に高級娼婦がいない世界の方がみんな本当は幸せなのでは?それでも我々は高級娼婦を必要としますか?それでもあなたは高級娼婦を探すだろうか?私はみなさんの意見をぜひ伺いたいと思う。

 

  

終  

サーフィン、またはサーフィンとしての人生

 僕は一度しかサーフィンをしたことがない。湘南の海で、正確に言うと茅ヶ崎の海で一度だけ。。

 

 人生がサーフィンだとすると海は何か。人生がサーフィンだとすると波とは何か。人生がサーフィンだとすると。もし上手く波に乗れなくても、海が無くならない限り、次の波が来るだろう。もうそこの波が気に入らなくなったら、そこの雰囲気がもう以前とは違うものになったら、違う場所に行けばいい。違う島の違う砂浜の違う波に乗ればいい。だからただ一つの場所でうまく波に乗れなかったからと言って、君が波に乗れないということにはならない。皮肉にも僕はサーフスポットに明るい人間ではないのでどこがいいのかは他に譲るとして、波が微妙だなと思ったら陸に上がって海を見渡し、湾を見渡し、いい波のある場所に行こう。それくらいは言える。

 

 大半の人、大半のシーンで目につくのは同じ場所で同じ時間に同じ顔ぶれでなんとも言えない波に乗ろうとしていることだ。彼らはうまく波に乗ろうとしているのかもしれないが、陸からそれを眺めている人からしてみればまるで醜い争いのようにしか見えない。問題は陸からしかそれは分からないということだ。しかも波に乗ろうとしてる彼らは陸の人間を軽蔑するだけではなく、自分たちを何か凄いことを達成しようとしているより優れた人間だとさえ考えていることさえある(本当に)。

 

 

 このような事態は至る所で起きる、または起きている、起きてきた。実際にそうした波に乗ろうとする愚者の中から一人海から陸に上がるには周りの同じような愚者たちから非難の声を浴びることなしにはいられない。だからこそそれは大変なのだ。

 

 

 人生がサーフィンと違うのは、人生は一つの波で終わらない。人生は一つの波に乗り続けることではない。一つの波に乗り続けることがサーフィンでもないのだろうけど。 

 会社の規定に、「君はこの一つの会社、一体となった波に乗り続けなければならない。」なんて書いてあったらひっくり返るだろう。こちらから願い下げだ。

 

 

 新しい波を探して。または求めて。

 

 

2022年3月22日 春分の日の一日後に。